規則的に満ち欠けを繰り返す月は、「再生」、「不死」、「豊穣」、そして、「時」と「秩序」の象徴であり、それを司る神です。
また、女性の月経を支配する、つまり、人間の出産を司る存在です。
そして、潮の干満を支配する、つまり、水の流れを司る存在です。
縄文文化は原地母神という女性原理の能産力、再生力を信仰の中心としていたので、必然的に月信仰を重視していました。
その後の倭国も、海の民(魚撈民)の影響の強い国でした。
海の民は、生活にとって何よりも重要な「潮」を支配する月を信仰していたと考えるのが妥当です。
実際、古代の日本は太陰暦を使用していましたし、多くの祭は満月の夜に行われました。
これは月を信仰していたからでしょう。
<再生を願う月信仰>
月は、自身が再生する存在であり、また、再生力、生命力を与えることで自然や人間の再生を可能とする存在です。
月は、一ヶ月周期で満ち、欠けます。
そして、3日間の死を経て新月(朔から三日月)として再生します。
月の明るい部分は、生命力、再生力が満ちていて、それによって光っています。
月の生命力、再生力は、月光として、稲妻として、あるいは、「変若水(おちみず、若返りの水、生命の水)」として、または、それを飲んだ蛇を通して、自然、人間に与えられます。
「変若水」は、主に雨を通して、あるいは、露という形で地上に下り、自然に吸収されます。
月は、「原地母神(太母)」の一部であるか、一体の存在、あるいは、密接に関係のある存在です。
月を象徴する図形には、「三角形」、「菱形」、「波線(蛇行線)」、「螺旋」などがあります。
月は、3日間、死んでから再生すると考えられたので、数字の「3」は、月(新月、三日月)を象徴します。
月の動物は、三本指であったり、三本足だったりします。
復活した三日月(新月)の象徴には、牛などの「角」、イノシシの「牙」があります。
「勾玉」もそうです。
<土偶>
縄文の土遇には、再生力の象徴である月信仰が表現されています。
涙、鼻水、ヨダレを流している土偶がありますが、これは月神が「変若水」を下していることを表現しています。
縄文の土偶の多くの口が開いているのは、「変若水」を受ける取るためです。
顔が平たく、上を向いているのも、頭上に取入口がある中空構造になっているのも、「変若水」を受けて入れるためです。
土偶が腕(脇)を広げているのは、新月の後に月光を切望している姿です。
三角の顔、ハート型(三日月を2つ合わせた形)の顔は、月神を表現します。
細長い目や眉毛は、三日月を表現しています。
遮光土偶は、赤ん坊の寝顔を表現していて、これは誕生した新月を表現しています。
<月の動物:蛇、蛙、兎、馬、蚕>
「蛇」は、何よりも脱皮して再生する点が、そして、鱗が光る、蛇行するなどの点が、月と共通しているので、月を象徴する動物です。
そして、「蛇」は、月の「変若水」を飲んだ存在であり、それを運ぶ存在です。
月神は、蛇となって人間の女性と交わります。
中でも海の彼方からやってくるセグロウミヘビが月神の化身でした。
「雷(稲妻)」は、光る(熱なく光る)点が、そして、蛇行し、雨(変若水)を導く点が、月神と似ているので、月の働きであり、「蛇」でもあります。
月神の性別ははっきりしませんが、女性と交わる蛇や稲妻は、男性です。
「蛙(ヒキガエル)」は、雨を呼ぶ点で、そして、冬眠から復活し、その背が月の模様に似ているなどの点で、月と関係する動物とされます。
「ヒキガエル」は、月に飛びついて、その模様になったという神話が、各地のモンドロイドにあります。
また、月の「暗」の部分の象徴でもあり、また、大地の象徴でもあります。
古代中国の三星堆文明では、月の模様から、月で「兎」が「不死の霊薬」をついていると考えられました。
「兎」は、月の「明」の部分の象徴でもありました。
おそらく、古い時代に、日本にもこれが伝わったのでしょう。
日本でも、「兎」は月と関係の深い動物とされます。
「馬」は月の飛行力を象徴する動物であり、月神への犠牲獣でした。
「古事記」に出てくる「天の斑駒」は月のような模様を持った馬であり、月神の化身でしょう。
「蚕」は月の虫、常世の虫です。
「蚕」の背には、「馬」の蹄の模様があります。
「蚕」は、最初は黒い姿(新月)ですが、何度か脱皮(再生)しながら1ヶ月ほどで満月のような繭に籠もって白い姿で復活します。
つまり、満ちていく月なのです。
そして、繭から作られた糸、それを織った衣は、月の光を放ちます。
ちなみに、日の巫女とされる「ヒルメ」の「ヒル」は、糸を延べて戻す作業のことで、「ヒルメ」とは月の巫女である「機織女」のことです。
中国の「捜神記」中の「女化蚕」や、日本の「遠野物語」のオシラ様の説話などで知られる養蚕神話(馬娘婚姻譚)は、剥がれた馬の皮が娘を包んで蚕(神)となったという神話です。
「蚕」と「馬」が結び付けられていますが、それを背景で結びつけているのは月信仰でしょう。
ちなみに、古代中国の三星堆文明(揚子江文明)の西大母の神話には、月、蚕、兎、ヒキガエルが揃っていました。
<月と動物と機織女>
機織女と蚕とヒキガエル、馬を登場させて、古代日本の月信仰を再構成してみましょう。
雨(=変若水)が降らず、自然の生命力が衰退した時、ヒキガエルが月に雨を祈願して鳴きます。
月は「変若水」を地上に落とすことで、自然を復活させます。
ですが、月は自身の生命力を失って欠けていき、深夜に空高くで輝くこともできなくなります。
そして、とうとう岩屋の中に隠れてしまい、夜の世界は暗闇となります。
月の再生を祈って、月に仕える巫女(機織女)も忌み籠りします。
月の生命力は自然が吸収します。
月の虫である蚕は桑を食べて、その中にある生命力を集めます。
蚕は黒い姿(新月)から白い姿(満月)へと、何度も脱皮しながら1ケ月かかって成長し、繭(満月)を作って変態します。
機織女は、月の生命力が凝縮した繭から絹を紡ぎ、光る衣(領巾・神衣・天の羽衣)を織り上げます。
規則正しく機を織る作業は、時と秩序と豊穣の月の特徴と重なります。
機織女は完成した領巾を振る呪術によって、月に生命力、光を返します。
また、馬を供犠として捧げます。
こうして、月は復活し、満ちゆき、馬の飛行力によって天高くで輝くことができるようになります。
<万葉集、出雲国風土記と月信仰>
「万葉集」に表現された世界観は、記紀神話に比較すると、政治的に改変された側面が少ないと思われます。
「万葉集」には月の歌は多く、太陽の歌は数少ないのです。
つまり、古代日本では、月信仰の方が強かったのです。
そして、「アマテル」という言葉は、月を形容する常套形容句(海を照らす月)でした。
つまり、「アマテル(アマラス)」は、本来は月の女神、あるいは、月の巫女神であり機織女を指す名前だったのでしょう。
実際、伊勢神宮の内宮の神楽歌にも、「アマテラス」を月とする歌が残っています。
また、内宮の秘伝書「倭姫命世紀」には、荒祭宮の多賀宮に祀られているアマテラスの和魂が「月天子」であると書かれています。
また、アマテラスの荒魂とされる「アマサカルムカツヒメ」の「天さかる向か」とは、月が西の天の極みに向かって昇ることを意味する常套句です。
さらには、本来の皇祖神であるタカミムスヒ(高木神)も槻に付く月神です。
「ムス」は再生を意味します。
そして、オオヒルメノムチ(=天照大神)はそれに仕える巫女です。
ちなみに、天皇を表す「スメラ」は月を表す「澄む」から来た言葉です。
また、天皇に名に現れる「タラシヒコ」の「足る」は月が満ちることを意味します。
*この項ここまで、三浦茂久「古代日本の月信仰と再生思想」を参照
三日月を表現する勾玉を神宝として重視する古代出雲には、月信仰が濃厚にあったはずです。
「出雲国風土記」に語られる加賀伝承は、月母神の創世神話だったはずですが、大和朝廷の意図によって改変されています。
本来の加賀伝承では、佐太大神の母、輝く支佐加比売(キサカヒヒメ)は月女神です。
洞窟の主であり、満月でもあったこの女神が、金の弓によって太陽を射落として新月の御子(=勾玉)である佐太大神(=オオナムチ)を生みました。
「加賀(カガ)」は、月光の輝きを意味します。
「佐太(サタ)」は、「更」+「足」、つまり、再生した満ちる月を意味します。
「猿田彦」も「佐太大神」と同じ神でしょう。
また、「出雲国風土記」に登場する神のアジスタカヒコは、大きな声で泣く児童神で、梯子を昇降します。
この神は、「変若水」垂らす新月、あるいは、「変若水」や稲妻として月から下り、また月に戻る神でしょう。
この神は、記紀神話のスサノオのモデルの一人だったのかもしれません。
*この項ここまで、ネリー・ナウマン「光の神話考古」掲載の坂田千鶴子「『出雲国風土記』砕かれた縄文槻神話の復元」を参照
<記紀神話と月信仰>
記紀神話は、縄文以来の月信仰を隠しました。
ですが、わずかに、その断片や改変された姿が残っています。
「日本書紀」では、月神のツクヨミがウケモチを殺すと、その死体の各所から穀物や蚕、牛馬が生まれます。 数少ない月に関する神話です。
この神話の背景には、月神が自然の死と再生を司る豊穣神と考えられていたことがあります。
「古事記」では、アマテラスが機屋で神に奉げる衣を織らせていた時、スサノオは機屋の屋根に穴を開けて、そこから皮を逆剥ぎにした天の斑馬を落とし入れます。
そのため、織織女が驚いて梭(ひ)で陰部を刺して死んでしまい、それに怒ったアマテラスは天岩屋に引き篭ります。
上に書いたように、馬は月の飛行力を象徴する動物であり、月神のツクヨミは馬に乗ります。
そのためか、馬は月神への犠牲獣でした。
スサノヲが馬を投げ入れたのは、馬を供犠にしたことが背景にあるのでしょう。
斑馬は月のような模様を持った馬であり、皮を剥がれているのは、光(=皮)を失った新月のことかもしれません。
であれば、岩戸に篭もったのは、アマテラス月女神です。
アマテラスは月の巫女であって、機屋に籠って、月を復活させる衣(=光)を織っていたのかもしれません。
また、アマテラスを岩屋から引き出す時に使った「鏡」は本来、満月の象徴でした。
「古事記」の出雲神話である「因幡の白兎」にも、その古層に月の神話があったと思われます。
因幡の白兎は海峡を渡るため、ワニを騙して一列に並ばせたワニの上を数えながら渡っていきますが、最後に嘘がばれて皮を剥がれます。
白兎が泣いていると、オオナムチが来て、治療法を教えてくれて治ります。
兎は月の明部の象徴ですから、ワニは暗部の象徴でしょう。
ワニを数えて海を渡るのは、月を読むこと(ツクヨミ)、つまり日を数えることです。
白兎が皮を剥がれるのは、満月が徐々に欠けて新月になるからです。
白兎が泣くのは、月が「変若水」を自然に降らすためです。
オオナムチには、復活した新月の神という性質が隠れています。
<月神話の心理学的意味>
太陽が意識的自我の象徴なら、月は無意識的な自己の象徴です。
古代の世界観においては、後者を重視し、後者が前者の創造力の基盤でした。
特に、狩猟文化では、女性原理の生む力を信仰し、人工的に田畑を管理する農耕文化とは違って、自然の森の中へ動物を迎えに行くので、後者を重視します。
太陽の死と再生を考えることは、意識の創造力を考えることです。
ですが、月の死と再生を考えることは、無意識の創造力を考えることです。
後者は、前者の基盤です。
月の死と再生を心に刻むことは、より深い創造力と、人格の成熟を導くことができます。
2020年11月06日
2020年11月05日
狩猟文化と原地母神信仰
農業や牧畜が発明される以前の後期旧石器時代の現生人類の文化は、狩猟・採集・漁撈文化(以下、狩猟文化)でした。
この文化は、現在まで、一部の地域で生き残っていますし、その宗教的影響は各所に大きく残っています。
このページでは、典型的・原型的な「狩猟文化」のコスモロジーを、「農耕文化」(別ページで扱います)と対比してモデル化します。
狩猟文化は、「遊動」から「定住」へと以降して大きく変化しましたが、両方を含めて「狩猟文化」として扱い、最後に「遊動文化」と「定住文化」の違いを簡単にまとめます。
また、シャーマニズム的には「狩猟文化」と類似する「牧畜(遊牧)文化」についても、簡単に触れます。
多くの狩猟・採集文化は、食料の大部分を採集に頼っていますが、狩猟には部族の世界観の核となるような宗教的な意味がありました。
男性が狩猟、女性が採集を担当し、脱魂・飛翔型の男性のシャーマンが、霊的世界とのコミュニケーションを担いました。 そして、豊猟を保証する宗教的儀式、呪術などの役割は、シャーマンが「動物の女主」を相手として行いました。
狩猟や脱魂は、「死」に関わるものであり、また、女性を対象とするものであるため男性の担当なのです。
一方、農耕文化では、伐採、耕作は男性が行いましたが、これは、植物や大地を殺すものだからでしょう。
農耕文化では、憑霊型の女性シャーマンが霊的存在を招きますが、これは男性神をこの世へ誕生させるものであるため、女性の担当なのです。
<原地母神(太母)>
どんな原始的な文化でも、ほとんどの場合は天上に至高の神がいると考えています。
ですが、この神は、ほとんど人間に関係せず、人間も関心を寄せないことが多いようです。
狩猟文化においては、天上世界はあまり大きな意味を持たず、地下世界との関係が重要でした。
狩猟文化では、「原地母神(太母)」と呼べるような女神が最も重要な存在でした。
この言葉は、農耕文化で信仰される「地母神」と対比して使っています。
原地母神は地下や海底の冥界にいて、生命を生む根源的な力を持つ存在です。
すべてを生み育て、魂の循環を司る「母」です。
「原地母神」には、人間を生む「人間の母」という側面と、動・植物を生む「動・植物の母(主、山ノ神)」、天体や自然を生む創造母神、火を生む「竈神」、あるいは大地そのものである「地母神」、あの世を主宰する「冥界母神」といった様々な側面があります。
後世には、それぞれの側面がそれぞれの神格として分かれていきました。
「原地母神」はお尻やお乳の大きい姿、あるいは子供を生んでいる姿で表されることが多くあります。
また、2匹の豹や獅子に守護された姿などで表されます。
「動物の女主」である「原地母神」は、半人半獣の姿で表されることもあります。
狩る動物の代表は「豹」、「獅子」など、狩られる動物の代表は「牛」、「鹿」などです。
また、大地の豊饒の象徴である「ヒキガエル」、あるいは「石(隕石、隕鉄)」、「渦巻き」や「迷宮」などの図形も「原地母神」の象徴でした。
天・地・地下を貫いて世界の中心に生えていると考えられた「世界樹」や「生命の樹」に代表される「樹」も「原地母神」の象徴、あるいは、依代でした。
「原地母神(動物の女主)」は、食物や動物の魂を無限に生む「袋(釜、鍋)」を持っていると考えられました。
これは地母神の「子宮」だとも言えます。
この袋は骨から動物を再生することもできます。
「洞窟」は最も身近な他界であり、冥界への入口でした。
大地が「原地母神」の体なら、洞窟はその「子宮(女陰)」でした。
人間が一生を終えて入る「墓」や、毎夜に戻る「家」も、地下冥界のあの世に戻るための原地母神の「子宮」と考えられました。
また、原地母神の子供である「火」が生まれる「竈」や、様々な食事を育む「土器」もそうです。
「原地母神」は「父性原理」を必要とせずに一人で様々な存在を生み出す「両性具有」的存在です。
ですが、「原地母神」の創造を助ける産婆役として、「原地母神」の一部である「男性原理」が「息子(恋人)」として分離して考えられることもありました。
この「原地母神」の「男性原理」は「男根」で象徴されます。
「父性原理」でないので全身を持つ神像ではないのです。
つまり、「原地母神」は、本来、自分の一部である「息子」によって自己受精するのです。
ですから、「原地母神」(その象徴の樹)には動物や人間の男根や睾丸が捧げられることもありました。
これに対して、農耕文化の「地母神」は、太陽神、嵐神などの天の「父神」と対になる存在です。
地上の存在は、人間も動物も、植物も、鉱物も、太陽などの天体も、すべて「原地母神」の子供です。
そのため、それらはすべて人間の親戚であり、その魂にも本質的な違いはありません。
地上で仮に違う姿をしているだけです。
地上の存在の代表は、「原地母神」の男性原理である「息子」の役割を演じることもあります。
人間の代表は、狩人でもある「シャーマン」です。
天体の代表は「太陽」です。
狩人のヤリは男根、太陽の光は精子の象徴になりました。
太陽は「原地母神」の息子なので、「原地母神」の子宮である洞窟から生まれたり、あるいは、「原地母神」の目、あるいは、「原地母神」と一体である世界樹に咲く花だと考えられたりしました。
また、太陽は「原地母神」の恋人なので、洞窟に光を指すことで自分の復活も含めた自然の豊饒をもたらすと考えられました。
<狩り、動物の女主、再生儀礼>
人間や動物の魂は、現世と冥界を循環します。
この世で死ぬことは、あの世の「原地母神(冥界母神、動物の女主)」の元へ戻ることであり、そこからこの世に誕生します。
ですから、魂を「原地母神」の元に送り、「原地母神」の力によって再生させる「再生儀礼」が、狩猟文化の宗教の核心です。
狩り、食事、葬式は、魂を送り返す一連の行為であり、「再生儀礼」と一体のものです。
狩りには、人間が主体的に狩るのではなく、肉体という贈り物を持ってくる動物を迎えに行くといった感覚があります。
ですから、狩りは礼儀正しく正々堂々と行わなければいけません。
非人道的な作戦や強力過ぎる武器は使えません。
狩りの後には、動物の魂をなだめ、死体を丁寧に扱い、礼儀に従って食し、お返しの贈り物を持たせて「動物の女主」の元に送る儀式が必要でした。
でないと、動物は2度と人間の前に姿を現さなくなります。
動物の供犠も、魂を「原地母神」のところに送り返すことの象徴的な儀式でした。
動物や人間の「骨」、特に「頭蓋骨」は不滅の魂の象徴として、「動物の女主」を象徴する樹に架けるなどして祀りました。
そして、「血」が再生の力の象徴として振りかけられました。
色で言えば、基本的に、赤は再生力の象徴であり、緑(青)は成長力の象徴です。
シャーマンは不猟の時には、別ページで紹介したように、脱魂して「動物の女主」から必要な魂をもらいます。
また、別ページで紹介したように、洞窟で儀礼を行いました。
シャーマンは「原地母神」に自らを捧げるために、傷をつけたり、神話的には「樹」に吊り下げられたりすることもあります。
タロットカードの「吊るされた男」や十字架のキリストの源流もここにあります。
狩猟文化のシャーマン的な神秘思想を考えると、その核心は、日常的な自我を殺すことによって、「原地母神」として表される創造力に合一し、再生することです。
また、類似した意味を持つ儀礼として、部族文化の成人のイニシエーション儀礼があります。
これは、怪物のような存在、あるいは、熊や虎、クジラなどに飲み込まれて、吐き出されるという擬死再生の体験を基本としています。
この怪物のような存在は、「原地母神」の化身的な存在であって、この擬死再生儀礼は、狩猟文化の魂の循環の秘密を体現して知ることなのです。
また、この怪物に食べられて再生することは、人間が動物を食べて冥界に送り返すことと、ちょうど対称的です。
<男性神の巡回>
「原地母神」の子供である地上の生物、その代表である男性神は、季節によって、地上と冥界(原地母神の元)を循環すると考えられました。
神話にもそれは反映されましたが、地域によって、その神話は異なります。
例えば、ケルト人などの地域では、獣王(ケルヌンノスなど)が、冬に冥界に降りて地母神とカップルになり、春に地上に上がると、冥界王が地母神とカップルになると考えたようです。
また、漁撈が重要な地域(おそらく縄文人やその後継の海の民、アイヌも)では、「海の神(ワニ=サメ、シャチ=エビス)」が、冥界である山の女神の元へ、川を遡る、あるいは、洞窟の中を登る、特別な神の道を通るなどして、通うと考えたようです。
ちなみに、死者の魂も、海岸の洞窟から山中地下の他界を経て、山頂から天の世界へ行くと考えました。
<冬至祭>
狩猟文化では、太陽を初めとして、すべての生命が衰退から復活へと転じる象徴的な日である「冬至」が、最も重要な祭儀の日でした。
「立石」や「立柱」は、「環状列石」や近方の山などと太陽を基準にして、季節を知るカレンダーでもありましたが、太陽の光を受けてその魂や精子を宿す依代でもありました。
そのため、「立石」は冥界への入り口でもありました。
そのため、冬至に昇る太陽の光や「立石」の影が、家の中の竈に差すように配置されました。
これは「原地母神」を自己受精させて、自然の豊饒を祈る再生儀礼です。
「冬至祭」では、新しい「火」が鑽り出されました。
「火」は「原地母神」の子であり、生命力です。
新しい「火」は、各家庭の竈にもたらされ、家の守り神として1年間保持されました。
また、村の境界にも、魔除けと豊饒のために、男根としての「立石」が立てられたり、子宮としての「壷」が埋められたりしました。
境界神や道祖神の源流です。
<月信仰>
狩猟文化には、月信仰が強くありました。
満ち欠けを繰り返す月信仰には、太陽信仰よりも復活の観念が強くあります。
また、女性や水とのつながりが大きいものです。
そのため、月信仰は、「原地母神」の女性原理と再生力を中心とする狩猟文化とつながりが強いのです。
ですが、月信仰に関しては、別ページの「縄文文化と月信仰」で扱います。
<遊動文化と定住文化>
初期の狩猟文化は、数家族からなる流動的なバンド単位で、定住せずに移動生活を行っていました。
ですが、徐々に、主に漁撈の生産量が多い場所から定住生活が生まれました。
日本では縄文時代の早期に定住化が行われました。
遊動文化では、家族制度は、双系で、出自が組織化されておらず、従って、「家系」という観念を伴いませんでした。
ですが、定住にともなって、氏族社会が成立し、出自が女系、もしくは男系に組織化されます。
これに伴って「先祖」は、一つの「家系(氏)」の先祖となります。
そのため、「先祖」は純粋に普遍的な霊魂ではなく、氏族としての個性を持つ存在になります。
遊動文化では、食料は平等に分配し、蓄積がなく、「純粋贈与」(得たものをただ与える)という交換様式のみを行っていました。
ですが、定住生活によって、初期の蓄積、格差が発生し、共同体の中での「互酬」(何かを与えられると、何かを返す)という交換様式が始まります。
また、定住によって、空間の宗教的意味の分節化が進んだでしょう。
村の中と外、中心と周縁、四方の観念などが強化されました。
<牧畜(遊牧)文化>
牧畜・遊牧文化は、動物性の生産を中心にしている点では、狩猟文化と共通します。
ですが、その動物は、神(動物の女主)が管理する野生の動物ではなく、人間が管理する家畜です。
その点では、農耕文化と同じです。
遊牧は、移動生活を営みますが、年周期での移住場所がほぼ決まっている点で、定住でも遊動でもなく、その中間的性質を持っています。
遊牧文化は、狩猟文化と同様に脱魂型の男性シャーマンが多いのですが、動物の管理は、星座などの天の情報によるからか、地下世界の精霊よりも、天上の神(テングリ信仰)に対する信仰が強いのが特徴です。
この文化は、現在まで、一部の地域で生き残っていますし、その宗教的影響は各所に大きく残っています。
このページでは、典型的・原型的な「狩猟文化」のコスモロジーを、「農耕文化」(別ページで扱います)と対比してモデル化します。
狩猟文化は、「遊動」から「定住」へと以降して大きく変化しましたが、両方を含めて「狩猟文化」として扱い、最後に「遊動文化」と「定住文化」の違いを簡単にまとめます。
また、シャーマニズム的には「狩猟文化」と類似する「牧畜(遊牧)文化」についても、簡単に触れます。
多くの狩猟・採集文化は、食料の大部分を採集に頼っていますが、狩猟には部族の世界観の核となるような宗教的な意味がありました。
男性が狩猟、女性が採集を担当し、脱魂・飛翔型の男性のシャーマンが、霊的世界とのコミュニケーションを担いました。 そして、豊猟を保証する宗教的儀式、呪術などの役割は、シャーマンが「動物の女主」を相手として行いました。
狩猟や脱魂は、「死」に関わるものであり、また、女性を対象とするものであるため男性の担当なのです。
一方、農耕文化では、伐採、耕作は男性が行いましたが、これは、植物や大地を殺すものだからでしょう。
農耕文化では、憑霊型の女性シャーマンが霊的存在を招きますが、これは男性神をこの世へ誕生させるものであるため、女性の担当なのです。
<原地母神(太母)>
どんな原始的な文化でも、ほとんどの場合は天上に至高の神がいると考えています。
ですが、この神は、ほとんど人間に関係せず、人間も関心を寄せないことが多いようです。
狩猟文化においては、天上世界はあまり大きな意味を持たず、地下世界との関係が重要でした。
狩猟文化では、「原地母神(太母)」と呼べるような女神が最も重要な存在でした。
この言葉は、農耕文化で信仰される「地母神」と対比して使っています。
原地母神は地下や海底の冥界にいて、生命を生む根源的な力を持つ存在です。
すべてを生み育て、魂の循環を司る「母」です。
「原地母神」には、人間を生む「人間の母」という側面と、動・植物を生む「動・植物の母(主、山ノ神)」、天体や自然を生む創造母神、火を生む「竈神」、あるいは大地そのものである「地母神」、あの世を主宰する「冥界母神」といった様々な側面があります。
後世には、それぞれの側面がそれぞれの神格として分かれていきました。
「原地母神」はお尻やお乳の大きい姿、あるいは子供を生んでいる姿で表されることが多くあります。
また、2匹の豹や獅子に守護された姿などで表されます。
「動物の女主」である「原地母神」は、半人半獣の姿で表されることもあります。
狩る動物の代表は「豹」、「獅子」など、狩られる動物の代表は「牛」、「鹿」などです。
また、大地の豊饒の象徴である「ヒキガエル」、あるいは「石(隕石、隕鉄)」、「渦巻き」や「迷宮」などの図形も「原地母神」の象徴でした。
天・地・地下を貫いて世界の中心に生えていると考えられた「世界樹」や「生命の樹」に代表される「樹」も「原地母神」の象徴、あるいは、依代でした。
「原地母神(動物の女主)」は、食物や動物の魂を無限に生む「袋(釜、鍋)」を持っていると考えられました。
これは地母神の「子宮」だとも言えます。
この袋は骨から動物を再生することもできます。
「洞窟」は最も身近な他界であり、冥界への入口でした。
大地が「原地母神」の体なら、洞窟はその「子宮(女陰)」でした。
人間が一生を終えて入る「墓」や、毎夜に戻る「家」も、地下冥界のあの世に戻るための原地母神の「子宮」と考えられました。
また、原地母神の子供である「火」が生まれる「竈」や、様々な食事を育む「土器」もそうです。
「原地母神」は「父性原理」を必要とせずに一人で様々な存在を生み出す「両性具有」的存在です。
ですが、「原地母神」の創造を助ける産婆役として、「原地母神」の一部である「男性原理」が「息子(恋人)」として分離して考えられることもありました。
この「原地母神」の「男性原理」は「男根」で象徴されます。
「父性原理」でないので全身を持つ神像ではないのです。
つまり、「原地母神」は、本来、自分の一部である「息子」によって自己受精するのです。
ですから、「原地母神」(その象徴の樹)には動物や人間の男根や睾丸が捧げられることもありました。
これに対して、農耕文化の「地母神」は、太陽神、嵐神などの天の「父神」と対になる存在です。
地上の存在は、人間も動物も、植物も、鉱物も、太陽などの天体も、すべて「原地母神」の子供です。
そのため、それらはすべて人間の親戚であり、その魂にも本質的な違いはありません。
地上で仮に違う姿をしているだけです。
地上の存在の代表は、「原地母神」の男性原理である「息子」の役割を演じることもあります。
人間の代表は、狩人でもある「シャーマン」です。
天体の代表は「太陽」です。
狩人のヤリは男根、太陽の光は精子の象徴になりました。
太陽は「原地母神」の息子なので、「原地母神」の子宮である洞窟から生まれたり、あるいは、「原地母神」の目、あるいは、「原地母神」と一体である世界樹に咲く花だと考えられたりしました。
また、太陽は「原地母神」の恋人なので、洞窟に光を指すことで自分の復活も含めた自然の豊饒をもたらすと考えられました。
<狩り、動物の女主、再生儀礼>
人間や動物の魂は、現世と冥界を循環します。
この世で死ぬことは、あの世の「原地母神(冥界母神、動物の女主)」の元へ戻ることであり、そこからこの世に誕生します。
ですから、魂を「原地母神」の元に送り、「原地母神」の力によって再生させる「再生儀礼」が、狩猟文化の宗教の核心です。
狩り、食事、葬式は、魂を送り返す一連の行為であり、「再生儀礼」と一体のものです。
狩りには、人間が主体的に狩るのではなく、肉体という贈り物を持ってくる動物を迎えに行くといった感覚があります。
ですから、狩りは礼儀正しく正々堂々と行わなければいけません。
非人道的な作戦や強力過ぎる武器は使えません。
狩りの後には、動物の魂をなだめ、死体を丁寧に扱い、礼儀に従って食し、お返しの贈り物を持たせて「動物の女主」の元に送る儀式が必要でした。
でないと、動物は2度と人間の前に姿を現さなくなります。
動物の供犠も、魂を「原地母神」のところに送り返すことの象徴的な儀式でした。
動物や人間の「骨」、特に「頭蓋骨」は不滅の魂の象徴として、「動物の女主」を象徴する樹に架けるなどして祀りました。
そして、「血」が再生の力の象徴として振りかけられました。
色で言えば、基本的に、赤は再生力の象徴であり、緑(青)は成長力の象徴です。
シャーマンは不猟の時には、別ページで紹介したように、脱魂して「動物の女主」から必要な魂をもらいます。
また、別ページで紹介したように、洞窟で儀礼を行いました。
シャーマンは「原地母神」に自らを捧げるために、傷をつけたり、神話的には「樹」に吊り下げられたりすることもあります。
タロットカードの「吊るされた男」や十字架のキリストの源流もここにあります。
狩猟文化のシャーマン的な神秘思想を考えると、その核心は、日常的な自我を殺すことによって、「原地母神」として表される創造力に合一し、再生することです。
また、類似した意味を持つ儀礼として、部族文化の成人のイニシエーション儀礼があります。
これは、怪物のような存在、あるいは、熊や虎、クジラなどに飲み込まれて、吐き出されるという擬死再生の体験を基本としています。
この怪物のような存在は、「原地母神」の化身的な存在であって、この擬死再生儀礼は、狩猟文化の魂の循環の秘密を体現して知ることなのです。
また、この怪物に食べられて再生することは、人間が動物を食べて冥界に送り返すことと、ちょうど対称的です。
<男性神の巡回>
「原地母神」の子供である地上の生物、その代表である男性神は、季節によって、地上と冥界(原地母神の元)を循環すると考えられました。
神話にもそれは反映されましたが、地域によって、その神話は異なります。
例えば、ケルト人などの地域では、獣王(ケルヌンノスなど)が、冬に冥界に降りて地母神とカップルになり、春に地上に上がると、冥界王が地母神とカップルになると考えたようです。
また、漁撈が重要な地域(おそらく縄文人やその後継の海の民、アイヌも)では、「海の神(ワニ=サメ、シャチ=エビス)」が、冥界である山の女神の元へ、川を遡る、あるいは、洞窟の中を登る、特別な神の道を通るなどして、通うと考えたようです。
ちなみに、死者の魂も、海岸の洞窟から山中地下の他界を経て、山頂から天の世界へ行くと考えました。
<冬至祭>
狩猟文化では、太陽を初めとして、すべての生命が衰退から復活へと転じる象徴的な日である「冬至」が、最も重要な祭儀の日でした。
「立石」や「立柱」は、「環状列石」や近方の山などと太陽を基準にして、季節を知るカレンダーでもありましたが、太陽の光を受けてその魂や精子を宿す依代でもありました。
そのため、「立石」は冥界への入り口でもありました。
そのため、冬至に昇る太陽の光や「立石」の影が、家の中の竈に差すように配置されました。
これは「原地母神」を自己受精させて、自然の豊饒を祈る再生儀礼です。
「冬至祭」では、新しい「火」が鑽り出されました。
「火」は「原地母神」の子であり、生命力です。
新しい「火」は、各家庭の竈にもたらされ、家の守り神として1年間保持されました。
また、村の境界にも、魔除けと豊饒のために、男根としての「立石」が立てられたり、子宮としての「壷」が埋められたりしました。
境界神や道祖神の源流です。
<月信仰>
狩猟文化には、月信仰が強くありました。
満ち欠けを繰り返す月信仰には、太陽信仰よりも復活の観念が強くあります。
また、女性や水とのつながりが大きいものです。
そのため、月信仰は、「原地母神」の女性原理と再生力を中心とする狩猟文化とつながりが強いのです。
ですが、月信仰に関しては、別ページの「縄文文化と月信仰」で扱います。
<遊動文化と定住文化>
初期の狩猟文化は、数家族からなる流動的なバンド単位で、定住せずに移動生活を行っていました。
ですが、徐々に、主に漁撈の生産量が多い場所から定住生活が生まれました。
日本では縄文時代の早期に定住化が行われました。
遊動文化では、家族制度は、双系で、出自が組織化されておらず、従って、「家系」という観念を伴いませんでした。
ですが、定住にともなって、氏族社会が成立し、出自が女系、もしくは男系に組織化されます。
これに伴って「先祖」は、一つの「家系(氏)」の先祖となります。
そのため、「先祖」は純粋に普遍的な霊魂ではなく、氏族としての個性を持つ存在になります。
遊動文化では、食料は平等に分配し、蓄積がなく、「純粋贈与」(得たものをただ与える)という交換様式のみを行っていました。
ですが、定住生活によって、初期の蓄積、格差が発生し、共同体の中での「互酬」(何かを与えられると、何かを返す)という交換様式が始まります。
また、定住によって、空間の宗教的意味の分節化が進んだでしょう。
村の中と外、中心と周縁、四方の観念などが強化されました。
<牧畜(遊牧)文化>
牧畜・遊牧文化は、動物性の生産を中心にしている点では、狩猟文化と共通します。
ですが、その動物は、神(動物の女主)が管理する野生の動物ではなく、人間が管理する家畜です。
その点では、農耕文化と同じです。
遊牧は、移動生活を営みますが、年周期での移住場所がほぼ決まっている点で、定住でも遊動でもなく、その中間的性質を持っています。
遊牧文化は、狩猟文化と同様に脱魂型の男性シャーマンが多いのですが、動物の管理は、星座などの天の情報によるからか、地下世界の精霊よりも、天上の神(テングリ信仰)に対する信仰が強いのが特徴です。