2020年11月09日

トーテミズムと先祖信仰

先祖信仰は、その内容に若干の違いはあれども、世界のほとんどの伝統的な文化に見られました。
祖霊の最大の特徴は、個々人の個性を脱した普遍的な霊魂という点です。


<アニミズムとトーテム祖先>

原初的な狩猟文化・部族文化の宗教は、「アニミズム(精霊信仰)」だと言われます。
つまり、人間、動物、植物、さらには、石のような自然物、天体にも、魂が宿っていると考えます。

魂の本質を、非人格的で創造的な「力」であると考える場合は、「マナイズム」などと呼ばれる場合もあります。

何かに宿る、あるいは、何にも宿っていない魂や精霊は、通常は見えません。
ですが、非日常的な時間・意識の状態では、様々な姿で現れて、時には人間のような姿と言葉で語ります。

ですから、原初的な(狩猟)文化では、人間の魂と他の存在の魂(精霊)には本質的な差はないのです。
地上世界での仮の姿が異なるだけです。

現代人は頭ではアニミズムの世界観を信じていませんが、実際は、誰もが無意識的にはアニミズム的な世界を生きています。
様々なものに共感する、擬人的な表現をするという人間的な心情は、アニミズムが基盤になっています。

狩猟文化では、すべての人間、生き物の魂や天体は、地上世界と冥界の間を循環します。
多くの部族では、冥界では人間の魂は、やがて「祖霊(先祖霊)」になります。

「トーテミズム」と呼ばれる信仰を持つ部族社会では、人間の先祖を「トーテム祖先」であると考えます。
「トーテム祖先」は、人間と、動物、あるいは植物、自然物や天体などの魂が融合したような存在です。

ちなみに、現代の進化論も、人間の祖先は、遡るほど人間と他の生物との未分化な存在になります。

トーテムの体系は、一つの部族が共有し、特定の「トーテム祖先」は、部族の中の特定の氏族に固有のものです。
つまり、トーテムは、部族内で氏族を区別する標識です。

例えば、ある氏族のトーテム祖先が「カンガルー」だった場合、その「カンガルー」は、すべての氏族の人間の魂と、カンガルーの魂の元となる根源的魂です。
その分霊が、たまたま地上世界で、仮の姿として、人間として生まれたり、カンガルーとして生まれたりするのです。

トーテムの体系は、結婚制度や食のタブーと強く結びついています。
また、部族によっては、あらゆる存在が、何かのトーテムに分類されます。
つまり、トーテムの体系は、すべての存在を分類する普遍的分類体系、象徴体系なのです。


<祖霊信仰>

新石器時代以降の農耕文化になると、動物とのつながりは薄れ、穀物の生育は人間が管理するようになりました。
おそらく、そのため、人間の魂と他の生き物の魂が、別のものとして区別されるような傾向が生じたのではないでしょうか。

神々や自然の精霊達は必ずしも人間の味方ではありませんが、人間の「祖霊(祖神)」は部族の秩序を守り助けてくれる存在です。

彼らは神の意向を人間に伝えたり、逆に人間の望みを神にとりなしたり、様々な知識を人間に伝授したりします。
また、穀物の豊穣を見守ります。
そして、部族のメンバーを常に監視して、規則を犯した者を罰するとも考えられていました。


<死後と再生>

一般的な先祖信仰では、死後の人間の魂に関して、次のように考えます。

死んだ人間の魂(死霊)は、洞窟や山、川、海などを通って、地下、島、天上などの死者の世界に行きます。
そして、徐々に個性を脱しながら、数十年かかって、集合的な「祖霊(祖神)」に溶け込みます。

アフリカのある部族では、個性を保っている段階の先祖は厳格な性格を持っていて裁く役割を果たし、個性を失った「祖霊」は寛容になって見守ると考えます。

そして、やがて、分霊して、同じ血筋の子孫に生まれ変わります。

ですが、正常ではない魂は、死者の世界に入って「祖霊」になれず、地上を彷徨って死霊のままにとどまり、人間に災いをもたらすと考えられました。
例えば、あまりに悪行を行った人間、恨みを持って死んだ人間、異常な死に方をした人間、若くして死んだ人間、子供を持たずに死んだ人間の魂などです。

また、生まれてまもなく亡くなった場合は、再度、生まれ直すことになります。

また、偉大なシャーマンや英雄的な人間は、個性を残したまま天上などのあの世にとどまり、「祖霊」に溶け込むことも、生まれ変わることもないと考えられました。

死後の人間の魂は徐々に個的な性質を落としていくので、死後の魂、「祖霊(祖神)」には様々なレベルを考えることができます。

・個人的な人格を残した死霊
・氏族としての集合的な祖霊  :氏神、氏族の始祖、トーテム祖先
・部族としての集合的な祖霊  :部族の始祖
・人間全体としての集合的な祖霊:原人間、最初の人間
・生物全体としての集合的な祖霊:至高神の最初の分霊

これはあくまでも理論的に区別できるということであって、各部族がこれらの階層を区別しているということではありません。

「祖霊」は、個的な性質を落とした人間の普遍的で純粋な魂です。
そして、エネルギーに満ちているので、人間とは違った姿をしていて、仮面の姿で現させることも多いようです。

個性を脱した魂というのは、未分化で様々な可能性を秘めている存在ということです。
各氏族のトーテム祖先は特定の特徴を持っていますが、トーテム体系全体を所有する部族の祖先は、そのような個別の特徴は持ちません。


<祖霊と浮遊霊の心理学>

人間の人格は、生まれたばかりの時にはなく、特徴もほとんどありません。
成長し、社会人になるに従って、形成されていきます。

人格は、親/子、男/女、兄弟姉妹、夫/婦、職業…といった様々な性質=ペルソナを鋳型として作られていく側面があります。
その時、潜在意識には、多数のペルソナが作られ、意識はその一方か一部に自己同一化します。

例えば、親と向かい合っている時は子として、子と向かい合っている時は親として、妻と向かいあっている時は夫として、上司と向かい合っている時は部下として、客と向かい合っている時は店員として…などなど、その時々にペルソナを付け替えます。
人間の人格はそのような複数のペルソナの複合体です。

ですが、一人でいる時の人格は、誰かと対している時より、いくぶん透明な、細分化していない特徴の少ない存在になります。
ですが、ユングが主張したように、無意識にはその人の意識にあらわれていない特徴が潜在しています。

無意識全体を考えると、人の魂の特徴は、誰もが多様です。
様々に分化したペルソナ的人格もあれば、未分化な人格的要素もあります。

また、ある人にとっては、付き合いのある他人の人格は、すべて無意識の人格の一つです。
神々や精霊も一種の無意識の人格です。

ですから、通常の人間の意識的な人格は、魂の可能性のごく一部でしかありません。
社会的な制約や意識的な自我の制約をなくすと、通常の人格の多くの部分は、溶けて普遍化していきます。
死後の魂は、そのようにして「祖霊」になっていくと考えられたのでしょう。

死後の魂が普遍化していくと考えることは、宗教や神秘主義、シャーマンなどの修行によって、人格を統合・変容させていくことと似ています。


また、異常な人間の魂が、「祖霊化」せずに浮遊霊となって地上の人間に悪い影響を与えるとする考え方には、心理的には、抑圧や後悔、強いショックなどに関わる、未完了なままに残された心的要素に現れる現象と類似しています。

本来、意識に現れる心的要素は、意識によって何らかの処理、受容が必要なものであって、そういった作業を完了する必要があります。
「祖霊」になっていく死霊は、そのような完了した、あるいは、完了に向かっている心的・人格的要素と似ています。

それに対して、処理されずに抑圧によって無意識に送られた心的要素(コンプレックス)は、時には強迫的に、意識に何度も再帰し続け、心身を脅かしたり、意識の変容を迫ったりします。
強いショックを受けた体験の記憶や、後悔なども、このような心的現象を引き起こします。
こういった未完了な心的要素は、人間に悪影響を与える浮遊霊と似ています。
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2020年11月08日

農耕文化の天地聖婚・穀霊信仰

このページでは、新石器時代以降に生まれた農耕文化の宗教的コスモロジーを、別ページで紹介した狩猟文化のそれと対比してモデル化します。


<天の男神と地の女神の聖婚>

シャーマンに関して対比すれば、狩猟文化が脱魂型の男性シャーマンが中心だったのに対して、農耕文化では憑依型の女性シャーマン(霊媒、巫女)が中心となります。

冥界に行くこと、動物の魂を冥界に送ることは、死に関わるので男性の仕事であり、現世に魂を呼ぶことは、生に関わるので女性の仕事なのです。

そして、狩猟文化の男性シャーマンの相手となる神は、「冥界の女神(原地母神、動物の女主)」であり、農耕文化の女性シャーマンの相手となる神は「天空の男神(太陽神、嵐神)」です。

・狩猟文化:脱魂型男性シャーマン―原地母神(動物の女主)
・農耕文化:憑依型女性シャーマン―天空男神(太陽神・嵐神)

狩猟文化では、「祖霊」が動物の再生や豊猟に関わることはあまりありませんでした。
ですが、農耕は、人工的に作られた田畑を人間が管理します。
おおらくそのためか、農耕文化では「祖霊」が穀物の生育を見守ります。

ですが、必要な自然の力もあって、主なものは、太陽の光・熱と、水です。
そのため、最も重要な豊穣神は、太陽神や嵐神(雷神、雨神)のような天空神です。
どんな神が重視されるかは地域によって特性があります。

雷神、雨神は、狩猟文化では月神の働きのような存在でしたが、農耕文化では月神より太陽神の重要性が上がったためか、雷神、雨神と月神との関係は薄れたようです。

そして、穀物の豊穣のためには、これら「天の豊穣神」と、「地の豊穣神(地母神、田畑の女神)が結びつくこと、つまり、「天地の聖婚」が必要となります。

そのため、太陽光や雨、稲妻が、精液や男根に譬えられるようになりました。
また、狩猟文化では地母神と傷つける行為としてタブー視される大地の耕作にも、「聖婚」の観念が生まれ、鍬が男根に譬えることになりました。

狩猟文化の「原地母神」が、息子(=男根)を自身の一部として含む両性具有的存在だったのとは違って、農耕文化の「地母神」は単性の女(母)性神です。
そして、「天神」も単性の男(父)性神であり、男神は「父性原理」として「原地母神」から独立したのです。

また、女性シャーマンは、天空男神の神霊を憑依させると共に、それと聖婚し、その御子神を生んで、出産(ミアレ)します。

一方、農業文化を基にした王国では、王が天空男神の子、あるいは、子孫、化身と見なされて、神として、死と再生や聖婚の儀礼を演じました。

「天地の聖婚」の観念は、天空と地上・地下の分離を意味します。
狩猟文化では、重要性の乏しかった天上、天神が、農耕文化では重要な存在となり、その分、地下の冥界の重要性が減りました。


<季節循環の神話・儀礼>

穀物の育成の管理が必要な農耕文化では、狩猟文化よりも、季節循環の儀礼や神話が重要となりました。

季節循環は、「天の豊饒神」が「不毛神(冬や乾季の神)」や「冥界神」と戦って死んで冥界に落ちたり(バアル、マルドゥク、ホルス神話など)、「穀物神」やその「息子・娘」が「冥界神」によって連れ去られて(デルメル・ペルセポネー神話など)、これらを復活させたり連れ戻すといった形で表現されました。

季節循環は、次のような神話として表現されました。

「天の豊饒神」が「不毛神(冬や乾季の神)」や「冥界神」と戦って死んで冥界に落ちて、豊穣女神に助けられるなどして復活する。(バアル、マルドゥク、ホルス神話など)
「穀物神」やその「息子・娘」が「冥界神」によって連れ去られて、豊穣女神に助けられるなどして地上に戻る。(デルメル・ペルセポネー神話など)

また、豊穣女神は、荒ぶる存在となって不毛神と戦うこともありました。
ですが場合によっては、狂気に落ちて天神や穀物神を殺す存在にもなりました。
ここには、狩猟文化以来の「原地母神」=「冥界母神」として側面が変形されて現れているのでしょう。

天と地下の分離と平行して、善と悪の分離も進みました。
冥界は、豊饒や再生よりも、死や病気をもたらす存在として、悪という性質が強くなりました。
つまり、生命の循環の意味が少し変わって、冥界に行くことは、狩猟文化のような「帰還」や「再生」ではなく、悪に屈するという意味を持つようになりました。


<山の神と聖樹>

麦の畑作や水稲農業の文化の前に、山間部などでの焼畑農業や、イモなど根菜類の栽培農業の文化がありました。

焼畑、根菜農業では、豊穣女神の遺体からの穀物の誕生(ハイヌヴェレ、オオゲツヒメ型神話)や、地母神の火による死(イナザミ)と再生という神話が生まれました。

狩猟文化では、豊穣神である「原地母神」は、「山の神」でもありました。
焼畑農業では、山間の聖地と農地の間を豊穣女神が循環・来去するという観念が生まれました。
また、伐採された焼畑の農地には大きな樹が残され、そこに女神が宿るとされました。

この豊穣女神の循環の観念は、その後、里にある畑や水田にも持ち込まれ、「山の神」が「畑の神」、「田の神」として循環・来去すると考えられるようになりました。

そして、山から切り出された樹が、家、田畑に祀られました(若木迎え、門松、メイポール、クリスマスツリー)。


ですが、田には水が山から流れてきますが、畑は天水なので、「畑の豊穣男神」が天から直接、昇降すると考える場合もあります。

また、日本では、「天の豊穣神」の中でも、雷神は、山に降りて「山の豊穣男神」になることがあります。
狩猟文化では、雷神は月神の蛇体の化身であって、女性と交わる男性神でしたので、農業文化でもこれが継承されています。

ですが、男女の「山の神」が習合することで、性別が不明確になります。


年周期で来去する豊穣神は、春には若い神として来て、秋には老いた神として去ると考えられました。
上に書いたように、巫女が豊穣男神と聖婚して御子神(若宮)を生むと考える場合もあります。

日本では、「山の女神」は、新年に里に降りて、まず、「家の神(竈神)」になり、田に導かれて「田畑の神」になりました。


<穀霊のライフサイクル>

狩猟文化での「動物の魂」に対応するのは、農耕文化においては穀物の魂である「穀霊」です。

穀物は一般の植物とは異なった特別の存在で、食物の女神の遺体から生まれたり、その種が英雄(シャーマン)や鳥によって天上からもたらされたりしたものと考えられました。

狩猟文化では、動物が地上と冥界の「原地母神」の元を循環・来去したように、農耕文化では、「穀霊」が年周期で循環します。
この「穀霊」の再生と共に、宇宙も年周期で更新されるのです。

穀物のライフサイクルは、人間のライフサイクルと同様のものとして、対応して考えられました。

つまり、米や麦が育って穂が実ることは穀母になって受胎・妊娠すること、脱穀することは出産すること、苅取りは死ぬことです。
そして、種を倉庫に保管したり大地に巻いたりすることは、穀童が冥界に落ちること、発芽することは再生することです。


<農耕儀礼>

「天地の聖婚」や「穀霊」のライフサイクルなどの観念に従って、様々な農耕儀礼が行われます。

狩猟文化の流れを引く男性シャーマンがいる場合は、天上や冥界にトリップして種を盗み出したり、悪霊に盗まれた種を取り返したりする儀礼が行われることもあります。

男性秘密結社のメンバーが、村を訪れる「祖霊」に扮して、「穀霊」や「穀物の種」をもたらす場合もあります。
先に書いたように、「祖霊」は、穀物の生育も見守ります。

新年には、実際の農作業に先立って、農作業を模した「予祝儀礼」が行われます。
狩猟文化の影響からか、「儀礼的狩猟」が行われる場合もあります。

水稲農業の田植えは、おそらく、人間で言えば成人に相当する段階です。
日本では、田植えは、早乙女と呼ばれる女性が担当しますが、雷神を誘惑して稲妻と雨を田に導きます。
これは、雷神と田の女神(稲の穀母)との聖婚です。

収穫時には、「初穂儀礼」と「刈り入れ儀礼」が行われます。

東南アジアや沖縄では、脱穀前の初穂と農婦が添い寝をして、出産を模した儀礼を行いました。
そして、初穂を豊穣神に捧げて(穂掛儀礼)、穀物を神と「共食(新嘗祭)」することが重要な儀式になりました。

ヨーロッパでは、乱痴気騒ぎ的な儀礼や、農夫婦が畑で聖婚を演じる儀礼、麦の花嫁と花婿を結婚させる儀礼などが行われます。
また、収穫の後の麦(「婆さん」などと呼ばれます、麦穂から人形を作る場合もあります)を焼いて、その灰を田畑にまくという、死と再生の豊饒儀礼を行います。

<穀霊の秘儀>

農耕文化では、「穀霊」を、人間の魂の原型であり、特に新しく実った復活した「穀霊」が、純粋で生命力溢れる純粋な魂であるとして、信仰の重要な対象になりました。

具体的には、特に、最初に収穫された初穂、地域によっては最後に収穫された穂が神聖視されました。
そして、その穂が「家の守り神」として祀られました。

穂から脱穀された「籾」は出産された嬰児であり、精米された「白米」は「穀霊」と見なされたのでしょう。

狩猟文化の宗教の本質は、原地母神の創造性と一体化することですが、農耕文化の宗教の本質は、再生した穀霊としての純粋な霊魂と一体化することなのです。
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2020年11月06日

縄文文化と月信仰

規則的に満ち欠けを繰り返す月は、「再生」、「不死」、「豊穣」、そして、「時」と「秩序」の象徴であり、それを司る神です。

また、女性の月経を支配する、つまり、人間の出産を司る存在です。
そして、潮の干満を支配する、つまり、水の流れを司る存在です。

縄文文化は原地母神という女性原理の能産力、再生力を信仰の中心としていたので、必然的に月信仰を重視していました。

その後の倭国も、海の民(魚撈民)の影響の強い国でした。
海の民は、生活にとって何よりも重要な「潮」を支配する月を信仰していたと考えるのが妥当です。
実際、古代の日本は太陰暦を使用していましたし、多くの祭は満月の夜に行われました。
これは月を信仰していたからでしょう。


<再生を願う月信仰>

月は、自身が再生する存在であり、また、再生力、生命力を与えることで自然や人間の再生を可能とする存在です。

月は、一ヶ月周期で満ち、欠けます。
そして、3日間の死を経て新月(朔から三日月)として再生します。

月の明るい部分は、生命力、再生力が満ちていて、それによって光っています。
月の生命力、再生力は、月光として、稲妻として、あるいは、「変若水(おちみず、若返りの水、生命の水)」として、または、それを飲んだ蛇を通して、自然、人間に与えられます。

「変若水」は、主に雨を通して、あるいは、露という形で地上に下り、自然に吸収されます。

月は、「原地母神(太母)」の一部であるか、一体の存在、あるいは、密接に関係のある存在です。

月を象徴する図形には、「三角形」、「菱形」、「波線(蛇行線)」、「螺旋」などがあります。

月は、3日間、死んでから再生すると考えられたので、数字の「3」は、月(新月、三日月)を象徴します。
月の動物は、三本指であったり、三本足だったりします。

復活した三日月(新月)の象徴には、牛などの「角」、イノシシの「牙」があります。
「勾玉」もそうです。


<土偶>

縄文の土遇には、再生力の象徴である月信仰が表現されています。

涙、鼻水、ヨダレを流している土偶がありますが、これは月神が「変若水」を下していることを表現しています。

縄文の土偶の多くの口が開いているのは、「変若水」を受ける取るためです。
顔が平たく、上を向いているのも、頭上に取入口がある中空構造になっているのも、「変若水」を受けて入れるためです。
土偶が腕(脇)を広げているのは、新月の後に月光を切望している姿です。

三角の顔、ハート型(三日月を2つ合わせた形)の顔は、月神を表現します。
細長い目や眉毛は、三日月を表現しています。
遮光土偶は、赤ん坊の寝顔を表現していて、これは誕生した新月を表現しています。


<月の動物:蛇、蛙、兎、馬、蚕>

「蛇」は、何よりも脱皮して再生する点が、そして、鱗が光る、蛇行するなどの点が、月と共通しているので、月を象徴する動物です。

そして、「蛇」は、月の「変若水」を飲んだ存在であり、それを運ぶ存在です。
月神は、蛇となって人間の女性と交わります。
中でも海の彼方からやってくるセグロウミヘビが月神の化身でした。

「雷(稲妻)」は、光る(熱なく光る)点が、そして、蛇行し、雨(変若水)を導く点が、月神と似ているので、月の働きであり、「蛇」でもあります。

月神の性別ははっきりしませんが、女性と交わる蛇や稲妻は、男性です。


「蛙(ヒキガエル)」は、雨を呼ぶ点で、そして、冬眠から復活し、その背が月の模様に似ているなどの点で、月と関係する動物とされます。

「ヒキガエル」は、月に飛びついて、その模様になったという神話が、各地のモンドロイドにあります。
また、月の「暗」の部分の象徴でもあり、また、大地の象徴でもあります。


古代中国の三星堆文明では、月の模様から、月で「兎」が「不死の霊薬」をついていると考えられました。
「兎」は、月の「明」の部分の象徴でもありました。

おそらく、古い時代に、日本にもこれが伝わったのでしょう。
日本でも、「兎」は月と関係の深い動物とされます。


「馬」は月の飛行力を象徴する動物であり、月神への犠牲獣でした。
「古事記」に出てくる「天の斑駒」は月のような模様を持った馬であり、月神の化身でしょう。


「蚕」は月の虫、常世の虫です。
「蚕」の背には、「馬」の蹄の模様があります。

「蚕」は、最初は黒い姿(新月)ですが、何度か脱皮(再生)しながら1ヶ月ほどで満月のような繭に籠もって白い姿で復活します。
つまり、満ちていく月なのです。

そして、繭から作られた糸、それを織った衣は、月の光を放ちます。
ちなみに、日の巫女とされる「ヒルメ」の「ヒル」は、糸を延べて戻す作業のことで、「ヒルメ」とは月の巫女である「機織女」のことです。

中国の「捜神記」中の「女化蚕」や、日本の「遠野物語」のオシラ様の説話などで知られる養蚕神話(馬娘婚姻譚)は、剥がれた馬の皮が娘を包んで蚕(神)となったという神話です。
「蚕」と「馬」が結び付けられていますが、それを背景で結びつけているのは月信仰でしょう。


ちなみに、古代中国の三星堆文明(揚子江文明)の西大母の神話には、月、蚕、兎、ヒキガエルが揃っていました。


<月と動物と機織女>

機織女と蚕とヒキガエル、馬を登場させて、古代日本の月信仰を再構成してみましょう。

雨(=変若水)が降らず、自然の生命力が衰退した時、ヒキガエルが月に雨を祈願して鳴きます。
月は「変若水」を地上に落とすことで、自然を復活させます。

ですが、月は自身の生命力を失って欠けていき、深夜に空高くで輝くこともできなくなります。
そして、とうとう岩屋の中に隠れてしまい、夜の世界は暗闇となります。
月の再生を祈って、月に仕える巫女(機織女)も忌み籠りします。

月の生命力は自然が吸収します。
月の虫である蚕は桑を食べて、その中にある生命力を集めます。
蚕は黒い姿(新月)から白い姿(満月)へと、何度も脱皮しながら1ケ月かかって成長し、繭(満月)を作って変態します。

機織女は、月の生命力が凝縮した繭から絹を紡ぎ、光る衣(領巾・神衣・天の羽衣)を織り上げます。
規則正しく機を織る作業は、時と秩序と豊穣の月の特徴と重なります。
機織女は完成した領巾を振る呪術によって、月に生命力、光を返します。

また、馬を供犠として捧げます。

こうして、月は復活し、満ちゆき、馬の飛行力によって天高くで輝くことができるようになります。


<万葉集、出雲国風土記と月信仰>

「万葉集」に表現された世界観は、記紀神話に比較すると、政治的に改変された側面が少ないと思われます。

「万葉集」には月の歌は多く、太陽の歌は数少ないのです。
つまり、古代日本では、月信仰の方が強かったのです。

そして、「アマテル」という言葉は、月を形容する常套形容句(海を照らす月)でした。
つまり、「アマテル(アマラス)」は、本来は月の女神、あるいは、月の巫女神であり機織女を指す名前だったのでしょう。

実際、伊勢神宮の内宮の神楽歌にも、「アマテラス」を月とする歌が残っています。
また、内宮の秘伝書「倭姫命世紀」には、荒祭宮の多賀宮に祀られているアマテラスの和魂が「月天子」であると書かれています。

また、アマテラスの荒魂とされる「アマサカルムカツヒメ」の「天さかる向か」とは、月が西の天の極みに向かって昇ることを意味する常套句です。

さらには、本来の皇祖神であるタカミムスヒ(高木神)も槻に付く月神です。
「ムス」は再生を意味します。
そして、オオヒルメノムチ(=天照大神)はそれに仕える巫女です。

ちなみに、天皇を表す「スメラ」は月を表す「澄む」から来た言葉です。
また、天皇に名に現れる「タラシヒコ」の「足る」は月が満ちることを意味します。

*この項ここまで、三浦茂久「古代日本の月信仰と再生思想」を参照


三日月を表現する勾玉を神宝として重視する古代出雲には、月信仰が濃厚にあったはずです。
「出雲国風土記」に語られる加賀伝承は、月母神の創世神話だったはずですが、大和朝廷の意図によって改変されています。

本来の加賀伝承では、佐太大神の母、輝く支佐加比売(キサカヒヒメ)は月女神です。
洞窟の主であり、満月でもあったこの女神が、金の弓によって太陽を射落として新月の御子(=勾玉)である佐太大神(=オオナムチ)を生みました。

「加賀(カガ)」は、月光の輝きを意味します。
「佐太(サタ)」は、「更」+「足」、つまり、再生した満ちる月を意味します。
「猿田彦」も「佐太大神」と同じ神でしょう。

また、「出雲国風土記」に登場する神のアジスタカヒコは、大きな声で泣く児童神で、梯子を昇降します。
この神は、「変若水」垂らす新月、あるいは、「変若水」や稲妻として月から下り、また月に戻る神でしょう。
この神は、記紀神話のスサノオのモデルの一人だったのかもしれません。

*この項ここまで、ネリー・ナウマン「光の神話考古」掲載の坂田千鶴子「『出雲国風土記』砕かれた縄文槻神話の復元」を参照


<記紀神話と月信仰>

記紀神話は、縄文以来の月信仰を隠しました。
ですが、わずかに、その断片や改変された姿が残っています。


「日本書紀」では、月神のツクヨミがウケモチを殺すと、その死体の各所から穀物や蚕、牛馬が生まれます。 数少ない月に関する神話です。
この神話の背景には、月神が自然の死と再生を司る豊穣神と考えられていたことがあります。


「古事記」では、アマテラスが機屋で神に奉げる衣を織らせていた時、スサノオは機屋の屋根に穴を開けて、そこから皮を逆剥ぎにした天の斑馬を落とし入れます。
そのため、織織女が驚いて梭(ひ)で陰部を刺して死んでしまい、それに怒ったアマテラスは天岩屋に引き篭ります。

上に書いたように、馬は月の飛行力を象徴する動物であり、月神のツクヨミは馬に乗ります。
そのためか、馬は月神への犠牲獣でした。
スサノヲが馬を投げ入れたのは、馬を供犠にしたことが背景にあるのでしょう。

斑馬は月のような模様を持った馬であり、皮を剥がれているのは、光(=皮)を失った新月のことかもしれません。
であれば、岩戸に篭もったのは、アマテラス月女神です。

アマテラスは月の巫女であって、機屋に籠って、月を復活させる衣(=光)を織っていたのかもしれません。
また、アマテラスを岩屋から引き出す時に使った「鏡」は本来、満月の象徴でした。


「古事記」の出雲神話である「因幡の白兎」にも、その古層に月の神話があったと思われます。

因幡の白兎は海峡を渡るため、ワニを騙して一列に並ばせたワニの上を数えながら渡っていきますが、最後に嘘がばれて皮を剥がれます。
白兎が泣いていると、オオナムチが来て、治療法を教えてくれて治ります。

兎は月の明部の象徴ですから、ワニは暗部の象徴でしょう。
ワニを数えて海を渡るのは、月を読むこと(ツクヨミ)、つまり日を数えることです。
白兎が皮を剥がれるのは、満月が徐々に欠けて新月になるからです。

白兎が泣くのは、月が「変若水」を自然に降らすためです。
オオナムチには、復活した新月の神という性質が隠れています。


<月神話の心理学的意味>

太陽が意識的自我の象徴なら、月は無意識的な自己の象徴です。

古代の世界観においては、後者を重視し、後者が前者の創造力の基盤でした。
特に、狩猟文化では、女性原理の生む力を信仰し、人工的に田畑を管理する農耕文化とは違って、自然の森の中へ動物を迎えに行くので、後者を重視します。

太陽の死と再生を考えることは、意識の創造力を考えることです。
ですが、月の死と再生を考えることは、無意識の創造力を考えることです。
後者は、前者の基盤です。

月の死と再生を心に刻むことは、より深い創造力と、人格の成熟を導くことができます。
posted by morfo3 at 06:19| Comment(0) | 伝統文化のコスモロジー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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